スペインギタ-週間コルムナ◆火曜日更新

現代人は勉強に仕事に忙しいのです。限られた時間を有効に活かしてギタ-を上達するにはスペイン人ギタリストの真似をするのが一番。楽譜なし、教則本なし、基礎練習ゼロ---。

 毎週このコラムを読めば貴方のギタ-人生が根底から覆されます。もし覆されない方がいらっしゃればグラナダにおいで下さい。私が自腹でスペイン名物脳みそフライをご馳走します。

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80 華僑の寿司から学ぶ正しくないギタ-演奏13-04-2004(火)

 
  今週は生徒である私達がギタ-の先生の立場になって考えてみるために寿司職人になってみましょう!?
 近年スペインに限らずヨ-ロッパ各国で華僑経営の日本料理屋が結構目に付きます。グラナダ市内だけでも数軒あります。中華料理が氾濫し過ぎたが故に華僑の考え付いた新しいビジネスなのです。
 さて、もし読者が外人に寿司の作り方を教えるとしたら一体何をどう教えるでしょうか?
 例えば・・・『具には刺身に胡瓜に干ぴょうを入れて最後は海苔で巻いて出来上がり・・・』 なるほど、これで外見は完璧な寿司ですが、肝心の酢加減はどうでしょうか? 
 ところで、スペインを旅行すると分かりますが、スペイン人はオリ-ブの漬物をよく食べます。ところが、これがまず日本人の味覚には合わないのです。逆にスペイン人にせっかく日本から持って来た沢庵、梅干を食べさせても心からまずそうな顔をしてすぐに吐き出します。こうなるともう美味いまずいではなく、民族の味覚の問題です。味覚も三つ子の魂百まで。やはり、人間小さい頃から食べ慣れた物が一番美味しいと感じる味覚になるそうです。外国のどんな名物料理もいざ賞味してみると必ずしも特別美味しいとは感じない理由もここにあります。
 同様にどんな優秀な中華のシェフも寿司については外人です。何とか米を炊いて中に具を入れて海苔で巻くことは真似出来るでしょう。また、それだけなら料理教室でも生徒に教えることは出来るでしょうが・・・。
 ところが、“芸術家であることとギタ-を上手く弾くことは全く無関係である”様に(先週のコルムナ)、本家日本人から見ると本物の寿司と華僑の作る寿司はその滅茶苦茶な酢加減故に全く無関係と言っていいほど、見かけだけは良く似てはいるものの、味は全く非なるものなのです。
 この似て非なる雲泥の差を生徒に教えてやれる先生が本当に良い先生と言えるとは思いますが・・・。
 
 

 

79 踊りもギタ-だ!? 06-04-2004(火)

 
  生徒はギタ-の先生の教えを基本的にどう捉えるべきか(コルムナ76~)。今週は先日地元新聞に載っていた或る有名なヘレス(アンダルシア地方)出身のフラメンコ舞踊家のコメントを元に考えてみましょう。
 見出しは『芸術家であることと上手く踊ることは全く無関係である』 これをギターに換言すれば『芸術家であることとギタ-を上手く弾くことは全く無関係である』ですね。これは一体どう言う意味でしょう?
 芸術家であることと上手く踊ること、そして、芸術家であることとギタ-を上手く弾くこと。これほど似ている様で非なるものはない、レベルの高いところから見れば両者は確かに似てはいるが、同時に確かに疑いもなく両極端な存在であると言うことなのでしょう。つまり、この舞踊家はことばは違えど以前ご紹介したギタ-教則本の大先生と奇しくも全く同じことを言っているのではないでしょうか(同70)? 
 いくら踊り手の手足の技術が完璧でもフラメンコの何たるかを分かっていないなら芸術ではない。同様にいくら指が動いたところで音楽として正しく解釈していなければ単に指の運動会に過ぎない・・・と言うことでしょうね。
 確かに我々その他大勢はギタ-を適度に楽しむために勉強するのであり、別に芸術家やプロを目指す訳ではありません。しかし、実は無意識の内にギタ-を弾くこととは似て非なる全く無関係なことを一生懸命何年間も、場合によっては一生やっているとすれば、しかもそれで悦に入っているとすれば、確かにそれは無知の上塗りかも知れません。
 ただし、先生の側から見ても生徒に芸術を教えるのか、ギターを指で上手く弾くだけと言う似て非なる全く無関係のものを教えるのか、これは難しい問題でしょう。来週は一つ先生の立場から考えてみましょう
 
 

 

78 セゴビア様のおっしゃることなら間違いなし 30-03-2004(火)

 
  筆者はその昔『無益に終わる練習曲より毎日二時間音階練習をした方が遥かに有益である』と言う二十世紀最高のクラシックギタリスト・スペインのアンドレス・セゴビアのコメントをどこかの本で読んだ記憶があります。つまり、このコルムナの捻くれた精神(上枠)の対極に位置する正統派理論の金字塔です。
 『そ~れ見ろ、天下のセゴビア様がそう申しておられるのじゃ』と元気づく貴方。大ギタリストからして基礎練習に励んでいるのだから私も、と決意を新たにする貴方。二十世紀最高の才能を持って生まれたセゴビアだからこそ一日二時間の音階練習が役に立ったのではありませんか? それを凡人が猿真似して悦に入るなら貴方はバカです、アホです、タ-ケ(名古屋弁)です。
 王貞治の真似をすればボクもホ-ムラン王になれると真面目に言えば漫才のネタなのに(コルムナ56&60)、セゴビアの真似をすればセゴビアの様にギタ-が上手くなれると言っても何故誰も笑わないのでしょう?
 天才の真似をする奴はもはや凡才です。それは仮にセゴビアが先生だったとしても同じこと。次元が違い過ぎるのに同じことをやればやるほど漫才ではないでしょうか?
 天才は天才を知る・・・。確かにセゴビア様のおっしゃることなら間違いなしですが、それはそのレベルでの話し。あれだけ豊かな音楽的才能と表現力に裏打ちされた上での音階練習二時間なのです。凡才の我々がいきなり音階練習二時間では異次元空間ごっこになってしまいます(同77)。
 幼稚園の先生が膝をかがめて園児と同じ目線で話す様に、生徒と同じ音楽レベルにまで下りてくれるギタ-の先生が本当に良い先生ではないでしょうか? 
 
 

 

77 異次元空間ごっこ 23-03-2004(火)

 
  つまり、先生も生徒も真面目なのですが、ほとんどの場合波長がズレているので、真面目さとやる気と月謝の割りには余りギタ-が上手くならないのです(先週のコルムナ)。
 建物の基礎がグラついているのに正しい室内インテリア(指のテクニック)の教授を真面目にやるから指も演奏もグラつき続けるのです。大先生なら正しい室内インテリアの立派な教授であることは事実でしょうが・・・。 
 機関車が不整脈でエンスト寸前なのに、客車での正しい接客サ-ビス講習会を真面目に受講したところで、列車も指も演奏も円滑に走る訳がないのです。講師がどんなに有名で教授内容が完全無欠でも・・・。
 つまり、ギタ-教則本もほとんどのギター教室も先生も『ギタ-は指で弾くから指を鍛え様』と言う指導方針なのですから、どんなに手取り足取りの生徒思いの丁寧なレッスンもこれでは最初からピンボケです。
 さて、筆者自身の経験や人から聞いた話しでも、結局大多数のギタ-の先生はギタ-教則本同様、建築のための室内インテリアや列車運転のための客車の装飾(指の様々なテクニックやそのための練習)しか言いません。
 大先生のレッスンですから正しい教授内容であることに疑いの余地はありません。ただ、先生と生徒が異次元空間にいること、それを先生も生徒も知らないで教えて教えられていることがピンボケなのです。
 
 

 

76 ギタ-教室の先生と生徒の会話(ピンボケ編) 16-03-2004(火)

 
  コルムナ62から先週までずっ~とギタ-教則本を基本的にどう見なすべきか考えて来ました。今週からはギタ-教室の先生です。具体的な教え方のことではなく、生徒は先生の教えを基本的にどう捉えるべきかと言うことです。
 さて、分かり易く行きましょう。生徒がこんな質問をしたとします。そして、大多数のギタ-教室の先生はこんな風に答えているはずです。そして、大多数の生徒はそれを鵜呑みにしているはずです。それは…。
・ 『先生、建築家になりたいんですが…。』『しっかり室内インテリアの修行を積みなさい。』(同3&14)
・ 『先生、機関車を運転したいんですが…。』『しっかり客車を整備しなさい』(同44~46&71~73)
 これだけなら愉快な漫才ですが、これを本気で真面目に言っているならもはやブラックユ-モアです。そして、ほとんどのギタ-教室の先生と生徒のレッスンはこんな真面目な、しかし、ピンボケな調子ではないでしょうか?
 確かに地中に埋もれて見えない基礎工事について質問する来客や機関車に乗せろと駄々を捏ねる乗客はいません。しかし、基礎工事がしっかりしていてこその室内インテリアであり、機関車が走ってこその豪華装備の客車です。
 確かにコンサ-トではほとんどの聴衆はギタ-奏者の指の動きに『目』を奪われるでしょう。その反面一体何人が目ではなく『耳』を奪われていることでしょう。音楽は『目』で見るものではなく『耳』で聴いて、そして、『心』で味わうものでしょう。聴衆ならともかく、ギタ-教室の先生や生徒までが指の動きや教則本の指の練習に『目』を奪われているとすれば、どんな大先生の教えも教則本もギタ-漫談になる可能性を秘めています、捉え方に拠っては…。
 先生の教えやギタ-仲間の助言はありがたく受け賜りましょう。ただし、生徒はそれらが基礎工事についての教えなのか二階の室内インテリアについてなのか、或は機関車についてのアドバイスなのか客車の装飾についてなのかを見分けないと家も建たなければ列車も走りません。『目』で見分けて下さい。でないと指も走りません。
 人生何事も『目』の付け所が問題です。これを最初から誤ると一生涯とんでもない方向に行ってしまいます。
 
 

 

75 親友か悪友か:ギタ-教則本総括 09-03-2004(火)

 
  今までのコルムナを整理すると ①ギタ-教則本はギタ-演奏の手段であって目的ではない(コルムナ65&67) ②ギタ-教則本は指教則本(同68~70) そして、先週のコルムナに鑑み ③ギタ-教則本は両刃の剣(同73) を第三の定義としておきましょう。まだまだ定義出来そうですが、取り敢えずこれ位にして、今週はギタ-教則本の基本的な捉え方についてコルムナ62から先週まで述べて来たことを簡単にまとめてみましょう。
・ 日本人の場合ギタ-(主にクラシック&フラメンコ)との出会いはギタ-教則本との出会いと言ってもいいほどギタ-教則本は最初からギタ-人生の友である。実際ギタ-教室でも独学でも教則本は不可欠である。
・ ただし、友の忠告だと思って何の疑いもなく絶対視して(同65)鵜呑みにして栄養になれば親友だが、消化不良で下痢ならギタ-人生を諦めさせられかねない(同69)最悪友にもなり得る両刃の剣(同74)である。
・ 大体人から言われたことを鵜呑みにすること自体個性のない人間の証拠。個性こそがアイデアである。
・ ギタ-は指で弾くから指を鍛えればいいと言う発想で書かれたのがギタ-教則本であり(同63)、これに従って学習する生徒も当然ギタ-は指の問題だと思う様になる。ギタ-は指ではなくアイデアで弾く以上、ギタ-人生のスタ-トからいきなり反対方向に走り出したことにもなる、大先生の書いた教則本のおかげで・・・。
・ 肝心のアイデアには一切言及せず、指についてだけ書かれていること自体既に本末転倒(同65)である。
・ ギタ-上達は教則本が推奨する指の鍛錬ではなく、指からの解放である(同58&59)。
・ 教則本に固執することは指を解放どころか、逆に指を縛り上げて自由を奪うことにもなりかねない(同32)。
・ 健全な大人は何を食べても栄養になる。同様に生まれつきアイデア(才能)のある人は教則本の眠くなる様な基礎練習をしてさえ実になる(同72~74)。ただし、そうでない我々その他大勢はそれを真似れば真似るだけ有害でさえあり、ギタ-と動かない指への失望感に苛まれる。ここにギタ-教則本の功罪(親友か悪友か)がある。
・ それならスペイン人フラメンコギタリストの様に頭からギタ-教則本と言う付き合う必要のない友とは付き合わないのも一つの有効な方法である。
・ とは言え教則本なり教室なり、何か目安がないと楽器の学習は難しいもの。頭から目安なしと言うのも確かに日本人には極端かも知れません。そこで教則本使用はやむを得ないとしても、それはあくまで目安であり、決して針路に迷った船乗りが仰ぎ見る南十字星の如き絶対的真理ではないと言うこと。この目安としての位置付けをはっきりさせた上で、ギタ-人生を正しい針路に導くために教則本を有効な目安として活かすにはどうすべきか? それは各自自分のアイデアで考えること。総て受身でどうします? 主役は弾き手の貴方。教則本じゃありません。
 
 

 

74 だがしかしそれでもギタ-教則本に拘る人々 02-03-2004(火)

 
  大先生も生徒もお互い共通点があります。それは多くの場合大先生は自らが生まれつきアイデアのある人間であることを知らず、生徒は自らがアイデアのない人間であることを知らない、つまり両者共己を知らないと言う共通点です。その己を知らない両者の接点としての媒体がギタ-教則本だと言ってもいいでしょう。
 確かに学生時代を振り返れば、出来のいい生徒も悪い生徒も皆総て、英語でも数学でも文部省の教科書と言う共通のテキストを使いました、いい大学に行った奴から落ちこぼれまで・・・。筆者も数学に限って言えば、高二の途中位までは四苦八苦しながら何とか付いて行きましたが、微分積分の頃からさっぱりお手上げでした。
 因みに同級生で受験前の正月に酒を飲んでマ-ジャンにうつつを抜かして東大ストレ-トの奴がいました。もうこうなると才能の桁が違った訳ですが、そんな連中とそうでない連中が同じ教科書で勉強すること自体が初めからとんでもない間違いなのです。そして、ある意味ギタ-練習生とギタ-教則本の関係もそうではないでしょうか? 
 大先生が大先生のレベルで書いた教則本に皆が付いて行ける訳ではありませんし、付いて行けないから落ちこぼれだと言われる筋合いも、落ちこぼれを自称する義務もありません。ただ、教則本に付いて行けなければ落ちこぼれのレッテルを貼ってしまう風潮が日本の特にクラシックギタ-界にはないでしょうか? それは何でも教科書通り、設計図通り、規則通りにやればいい子で、そうでない奴は変わり者と決め付ける日本人の国民性とも言える画一主義がギタ-界でも例外ではなく、それが何の疑いもなく教則本を絶対的存在にしていると言ってもいいでしょう。
 皆判で押した様に同じ制服を着て同じ教科書で勉強し、エリ-トと落ちこぼれに仕分けられる・・・。もっと生徒一人一人に合った指導をしようにも生徒が一クラス何十人もいれば学校の先生には無理な話し・・・。しかし、ギタ-は独奏楽器です。教則本を絶対視して上手くなる人はいいとして、それで落ちこぼれの生徒を出せば究極のところギタ-人口の減少と言う罪悪を犯しかねません。その意味では教則本は両刃の剣です。上手く利用しなければ切りつけられてギタ-に対する恐れ、劣等感を生み出し、最期にはギタ-生命をも絶たれます。
 ギタ-教則本をかじりもしないで毛嫌いするのも考え物ですが、両刃の剣みたいな凶器は怪我をする前に頭から玩ばないのも一つの手です。下手に玩んでいると逆に玩ばれてしまいます。因みに筆者は時間がないこともありますが、基礎練習などもう十五年位やったことがありません。いきなり曲を弾いた方が楽しいですよ、はい(コルムナ41&42&43)。もちろん、教則本で楽しみながら上手くなるならそれはそれで多いに結構なことでしょう。要は各自のレベルに合わせて楽しくやること。ギタ-なんて強いたり強いられたりして弾くもんじゃないですよ。
 もっと己を知ること。己を知れば大先生も生徒も教則本で強いたり強いられたりすることはないでしょう。
 
 

 

73 だがしかしギタ-教則本に拘る人々 24-02-2004(火)

 
  もう一度『スペインギタ-週間コルムナ』の原点に帰りましょう。それはギタ-とは自分の指で四苦八苦して弾くのではなく、自分の指にギタ-を弾いてもらって本人は楽をすると言うこと(コルムナ6&7)、つまり、客車の装飾の修行を積んで(指の基礎練習をしっかりやって)客車が機関車を引っ張るのではなく、客車の役割は単に機関車に連結されて、客車は何もせずに機関車に引っ張ってもらって一緒に走ることなのです。
 アイデア(才能:歌心:音感:リズム感etc)と言う機関車が元々備わっている人の客車は放っておいても走ります。これが指(客車の装飾)が『勝手に』指板を駆け巡って弦を奏でると言う意味なのです(同6)。
 こう言う人は何をやっても上達が早いのは当り前です。眠くなる様な基礎練習をしてさえ・・・。機関車が常に走っているのですから客車をどう装飾し様が、真面目に基礎練習をシラミ潰しにやろうが客車(指)は走ります。そして、実際大先生達は基礎練習を積んで上手くなったのです。だからそれを生徒に勧め、教則本にも書くのです。
  『私は基礎練習して上手くなったんだから、生徒も当然・・・』と大先生が自らの経験からこう思うのも、或は生徒が『大先生でさえ基礎練習を積んだのだから、ましてや私も・・・』と思うのもある意味当然の心理です。
 しかし、決定的な落とし穴は大先生の側から言えば、自らはアイデアが備わった人間であるゆえに教則本の基礎練習をしても血となり肉となったのであり、それを本人はアイデアのおかげではなく教則本の基礎練習のおかげだと思い込んでアイデアのない生徒に迷いもなく押しつけていることであり、生徒の側から言えば大先生の言う通りやれば上達間違いなしと思い込んで教則本を鵜呑みにしていることです。
 当然の心理はいつも当然の真理とは限りません。お互いアイデアを度外視して『ギタ-は指で弾く』と言う誤った絶対真理に立っている以上、教則本至上主義に陥ってしまうのは当然の心理かも知れませんが・・・。
 
 

 

72 だがしかしギタ-教則本で上手くなった人々 17-02-2004(火)

 
  ところが、教則本なし&基礎練習ゼロでもギタ-は上達すると言うスペインギタ-週間コルムナの基本精神(上枠参照)を逆撫でする様に、教則本のおかげで上手くなったどころか私はプロになったと言う人もいます。実際教則本の著者は皆有名なプロの大先生なのですから、これもまた事実なのです。そして、ほとんどのスペイン人フラメンコギタリストは楽譜も読めず教則本を見たこともなく、基礎練習と言う概念さえないのもまた事実なのです。
 一見両極端に見えますが、両者には明らかに共通点があります。それは両者の客車の装飾方法が全く両極端である反面、両者共プロになれるほどの才能と言う機関車(先週のコルムナ)が生まれつき備わった人間だと言う共通点です。つまり、クラシックギタ-リストなら歌心(同70&71)、フラメンコギタリストならリズム感と言う機関車(アイデア)です。こう言う人は何もしなくても機関車が走っているのですから、客車をどう装飾し様が演奏と言う列車は走ります。教則本なしで自由奔放に装飾し様が、教則本の基礎練習に忠実に装飾し様がです。つまり、指のテクニックと言う客車は常にアイデアと言う機関車に連結しているので、こう言う才能豊な人は無知な一般大衆が眠くなる様な基礎練習をしてさえも有益なのです、多分・・・。筆者はアイデアはない方ですから経験として断言は出来ませんが、おそらくそう言うことでしょう(同63&68)。
 だから才能(機関車:アイデア)のない人が才能のある大先生の書いた教則本の基礎練習で停車した客車の装飾を完璧にし様といくら頑張ってみたところで列車も指も走らないのです。大先生は機関車で客車を引っ張り、無知な一般大衆は客車で機関車を引っ張っているのですから、正にアイデアを度外視して、ペンを持つ指を鍛えれば指が良く動く様になって小説が書けると本気で思い込むのと同じです(同54&55)。
 ではどうして大先生はアイデアのない生徒にギタ-教則本で客車の装飾の勉強を勧めるのでしょうか?
 
 

 

71 ギタ-教則本は機関車か客車か 10-02-2004(火)

 
  当たり前のことですが、機関車が客車を引っ張るのが列車であり、逆なら本末転倒で立ち往生です(もう一度コルムナ44&45&46を読んでから先へ進んで下さい)。
 ギタ-教則本が指教則本(同68~)だとすれば、それはあたかも列車を走らせるためには客車の整備だけすればいいと教える様なものです。そんなことは気にもかけず(いや無知ゆえに気にもかからず)、客車の内部の装飾や設備だけに心から感嘆しているのが先週の大先生のおっしゃる世の無知なる者と言うことなのでしょうね。
 もっとも列車や建築の場合は各部所が分業ですから装飾の専門家でもいいかも知れませんが、楽器は全部自分でこなさなければなりません。つまり、機関車も客車の装飾も全部一人で受け持ちます。ここに、特に独奏楽器の難しさがあります。その意味ではギタ-は野球ではなく格闘技に近いと言えます(ちょっとおかしいか!?)。
 それにはまずギタ-は指(客車の装飾)で弾くと思っていた人はギタ-演奏にも機関車と言う概念を取り入れることが先決です。何せ客車の装飾絶対視で機関車度外視だった訳ですから・・・。そして、機関車の存在を認めたら、次に『機関車>客車』と言う優先順位を頭の中で確立することです。客車の整備をしてからでもいいじゃないかと言う意見のプロもいますが、そう言う人は生まれつき機関車と言う才能が備わっているからいきなり客車の指の装飾に取りかかっても列車が走るのであって、我々無知な凡才は機関車の整備が最優先です。ましてや機関車度外視なら重度の無知打ち症です。
 そして、機関車度外視で客車の装飾絶対視が他ならぬ指のテクニック養成テキストであるギタ-教則本の正体なのです。それはあたかも英語の文法書みたいなもの。多くの日本人の様に、いくら文法でいい点を取っても英会話がダメなら英会話にはなりません。いつも文法モ-ドで英会話モ-ドに入ったことがないから英会話と言う列車が動かないのです(同37&42&45&46)。
 指モ-ド(客車)ではなく演奏モ-ド(機関車)に入りましょう。機関車とは何でしょう(同45)? 答えの一つは歌心です(同70)。歌心はことばで説明出来ません。教則本では学べない心の問題です。これが先週の優れた芸術家の解釈力と言う意味でしょう。やはり小説はペンを持つ指ではなくアイデア(歌心)で書くのです。歌心の無い人に歌が歌えない(楽器の演奏が出来ない)のは当り前。発声練習や指の基礎練習の問題ではありません。
 読者の指が思う様に動いてくれないのは指が短いのでも堅いのでもなく、基礎練習をサボったからでもなく、歌心が足りないからです。歌心が指にありますか?
 
 

 

    70 指教則本にも五分の魂 03-02-2004(火)

 
  ではアイデアとは何でしょう(コルムナ56&57の最後)? 筆者の持っているあるクラシックギタ-教則本の冒頭の次の文章を引用して考えてみましょう。
 『世に大家と言われている者の中には指の職人如き技巧派と技術並びに解釈力共に優れた芸術家とがある。もちろん、前者は世の無知なる者の喝采を博しているだけで問題外の存在である。戦後派のギタリストにはこの様な種類に属する者が多い。最初の内は技巧家に師事する事も悪くはないが、最後の仕上げは解釈の優れた真の芸術家に師事しなければならない。』
 これは何と我々世の無知なる者の痛いところをグサッと突いているではありませんか。これでグサッと感じない人は余程優れた芸術家か、余程手の施し様のない無知自律神経失調症かのどちらかなのでしょうね。 
 ここまで自信を持って他人様を無知で問題外だと断言する著者の大先生も大先生ですが、それはさて置き、この文章を良く読むと『どんなに指が動いたところで、それだけで悦に入る様では器が小さい。ギタ-を奏でる目的は指の技巧ではなく音楽を表現することなのだから本末転倒も甚だしい。ましてや転倒しても転倒したことすら知らず喝采を受けているのだから無知の極致である。』と言っている訳です。きついおことばです。
 この教則本の残りのペ-ジを捲って見れば、内容はやはりお決まりのうんざりする様な基礎練習や指の鍛錬だらけです。ただ、この教則本を初めて手にしてちょうど三十年。この教則本で一番大切なのは実は冒頭のこの一文であることに今気付かされます。確かに三十年前も読んだのですが、手段であるべき指だけに気を取られ、肝心の目的である音楽表現のことなど気にも留まりませんでした。無知で問題外であること山の如しです。
 指が動いてくれないのはギタ-は指で弾くと言う無知で指をムチ打ったからではありませんか? アイデアがないのにペンを持つ指をムチ打っても小説は書けません。ギタ-教則本も指教則本と取り違えれば無知の上塗りです。
 アイデアとは音楽を表現し解釈する歌心。歌心のない人に出来る最大のことは指の鍛錬かも知れません。
 
 

 

    69 指教則本の魂百まで 27-01-2004(火)

 
  人生は出会いで決まると言われますが、買った(出会った)ばかりのギタ-教則本をペラペラと捲れば指のことばかり・・・。そうでなくてもギタ-は指で弾くと思っている人が圧倒的大多数なのに、出会い頭からいきなり指教則本だと言わんばかりに指についての解説や基礎練習や練習曲・・・。見る側も当然ギタ-は指で弾くから指を鍛えればいい、これはそのための指教則本なんだ、よし、しっかり指の練習をしよう、そのためにはまず右手左手の指の正しいフォ-ムだ、爪の形だ…と思いますよね? これが筆者も含めてほとんどの人のギタ-教則本との出会い、そして、捉え方ではないでしょうか? また総ての教則本はギタ-は指で弾くから指を鍛えればいいと言う基本概念に立って書かれている以上、この指教則本としての出会い方しかあり得ないとも言えます。
  一目惚れではありませんが、人生何事も第一印象がその後の固定概念を決めてしまうとも言えます。この指教則本の第一印象がその後のギタ-人生の三つ子の魂百までとすれば、初対面の第一印象からいきなりギタ-を誤解曲解したことになります。三つ子が健全に発育しないのは育児の方針が最初から的外れだからです。
 指教則本やそれに従って教えるギタ-教室の先生に年から年中指のフォ-ムがああだ、ここの運指はこうだと言われれば、言われた側からすれば一体どう思うでしょう? まず①ギタ-は当然“指で”弾く ②この教則本の練習メニュ-に従って“指を”鍛えれば“指は”動く様になる ③著者が大ギタリストなんだから言う通りに練習すれば間違いない ④しかし、何で私の“指は”思う様に動いてくれないんだろう? ⑤あ~あ、私の“指は”ギタ-には向いてない。辞-めた。
 これがほとんどの人のギタ-人生回顧録だとすれば、ギタ-教則本やギタ-教室はギタ-人口を減らしているとも限りません。ギタ-人口を増やしたければギタ-に一目惚れさせなきゃダメですよ。うんざりさせてどうします?
 アイデアがない人は小説も書けなければギタ-も弾けません。理屈は同じです。アイデアが指にありますか(コルムナ54&55など)? 指教則本で迷宮入りするよりアイデアを鍛えましょう。
 
 

 

    68 ギタ-教則本は指教則本 20-01-2004(火)

 
  何週かに渡ってギタ-教則本を基本的にどう見なすかについて考えて来ました(コルムナ62~)。そして、答えの一つは『ギタ-教則本はギタ-演奏の手段であって目的ではない』ことです。今週からは二つ目の答えです。
 小説家がペンを持つ指で小説を書かない様にギタ-も指では弾かない(同53~59)とすれば、音階練習だ、アルペジオ練習曲だ、ここはアポヤンドだ、次はアルアイレだ、左手の拡張だ、スラ-だ・・・と指の練習ばかりさせるギタ-教則本はギタ-演奏と言う総合的な視野に立たない、指だけに固執して指だけ鍛えればいいと言う偏狭な視野の『指教則本』と言えます。ピアノやチェロの教則本も同じでしょう。小説家になるためにはまず『きれいな字講座』を受けて、正しくペンを持ってきれいな字で書かなければならないと本気で思い込むのと同じです。
 『ギタ-教則本』のつもりが実は『指教則本』がその正体なのですから、これは完全にお門違いの本末転倒です。ますます指が引き攣ってもつれて転倒する訳です。もっとも、確かに間違え易い似た様な名称ですが、このお門違いはある意味致命的です。ギタ-が上手くなりたいのに『指教則本』の基礎練習の刑では浮かばれません。
 指はギタ-を弾くための手段です。決して指のテクニック自体が目的ではありません。目的と手段を取り違えると目的地には行けません。指だけ鍛錬することは日常英会話には使わない文法の知識を増やして頭でっかちになって転倒することと同じです。日本人に英語の『文法』の成績は良い割りに『日常英会話』が苦手な人が多いのは『指教則本』と『ギタ-演奏』の関係にも似ています。多くの場合音楽と語学は共通点が多いのです。
 指のテクニック集である『指教則本』は日常英会話には必要ない無用の長物英文法と同じです。もっとも捉え方にも拠りますが・・・。いや私は教則本で上手くなったと言う人についてはまた別の機会に話しましょう。